般若心経のスゴイところを僕なりに解説してみた

  • 2021年3月20日
  • 2021年3月20日
  • 歴史

今回のこの記事では、「般若心経」について僕なりに解説してみたいと思います。

般若心経は、日本の多くの仏教宗派で経典として採用されていますが、僕自身、以前から仏教に興味があるにも関わらず、これまで「名前は聞いたことがあるけれど何なのかはよくわからない」という状態でした。

そこで、あるとき般若心経について詳しく調べてみたのですが、その内容や、このお経が唱えられる理由というものが、すごく面白いことを知ったので、それをまとめてみたいと思います。

「般若心経って何がそんなにありがたいの?」という人は、ぜひとも読んでもらえたらなってかんじです。

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般若心経の基礎知識

まずは、般若心経を理解する上での基本知識から解説していきます。

そもそも「般若」とは何なのか?

まず「般若心経」の「般若」って何なのか?

般若というのはパーリ語(お釈迦様が話していた言葉)で「智慧」という意味になります。

たぶん、パンニャー(智慧)という発音に対する当て字として「般若」になったのでしょう。

ちなみに、仏教の基本的なテーマは「苦からの脱却」にあります。

仏教では、「なぜ人は苦しむのか?」というと、それは端的に言って「ものを知らないから」ということが原因だと考えています。

これは僕らの感覚で言う「知識が足りていない」というよりは、現実に起きている現象をあるがままに観察できないという意味においてなのですが、とにかく、その「苦しみのない人生」を得るために必要なのが「智慧」なんですね。

なので、仏教とは「智慧を磨くための教え」だと言い換えることができそうです。

そして、その智慧(パンニャー)の心髄をまとめたお経ということで「般若心経」という名前になっているわけですね。

般若心経は誰が作ったのか?

この経典は、もとを辿ればインド語で作られたものなのですが、その元々のインド語のものを作ったのは誰なのかはわかりません。

ただ、そのインド語の経典を現在の形の漢文に翻訳したのは、玄奘三蔵です。

つまりは、西遊記で有名な三蔵法師ですね。

三蔵法師は、仏教を極めるためインドの各地を訪ねて研究を行い、その後、中国に持ち帰った経典をたくさん翻訳した人なのですが、その翻訳したものの一部が、この「般若心経」ということになります。

般若心経の中身と読みかた

一応載せておくと以下の262文字+α が般若心経になります。

摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至 無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知 般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経

実際の読み方については以下の動画を参考にしてください。

般若心経の内容は?何が書かれているのか?

では、ここから肝心の般若心経の内容について話していきたいと思います。

ただ、お経の内容をすべて細かく翻訳すると長くなりますし、それは別のところで調べてもらうことにして、ここではザックリとどういった概要だけをまとめておこうと思います。

般若心経の全体像

まず般若心経の全体像としては、観音菩薩が釈迦の十大弟子の一人、舎利子(シャーリプトラ)に対して、教えを説くという流れになっています。

なので、正確に言えば、これは釈迦の教えが説かれたものではないんですね。

ここがイチバン勘違いしやすいところだと思うのですが、般若心経は「釈迦の教えが書かれている」のではなく、「大乗仏教の教えが書かれている」のです。

僕自身、仏教の経典なんだから、「お釈迦様の教えがまとめられたものなんでしょ」と思っていましたが、そうではありません。

般若心経は、大乗仏教の経典であって、そもそものお釈迦様の教えとは違うんですね。

大乗仏教とは何なのか?

じゃあ、そもそも釈迦の教えと大乗仏教は何が違うの?って疑問に思いますよね。

それを少し解説しておきたいと思います。

大乗仏教というのは、言ってみれば、もともとの釈迦の教えをベースにして、更に新しい体系として作られたものです。

お釈迦様の教えというのは、いわば「苦しみをなくすために心の修行をしなさい」というものなのですが、その修業は大変厳しいもので、俗世のすべてをなげうってお寺にこもらなければいけないなど、誰にでもできるものではありません。

そうなると、「結局は一部の選ばれた人しか救われないんじゃないか」というふうに落胆する人も出てきますよね。

で、そういった人たちを救うために生まれたのが、大乗仏教だったわけです。

もともとの釈迦の教え(原始仏教)では、「自分の修行は自分でしなさい」「人に頼っても意味がありませんよ」というものでした。

まあ、これは至極当たり前の意見だし、正論だと感じる人も多いでしょうが、その一方で、合理的すぎて「冷たいかんじがする」というふうにも言えるでしょう。

そこを大乗仏教では、「普段の生活で善い行いを続ければ、それだけでも悟りに近づけるんだ」とか、あるいは「お経を唱えて心に感じ入る部分があれば、それは前世でブッダに会って悟りを得るための誓いを立てた証拠なのだ」というふうにしました。

こういった教義の変更により、結果として間口が広がり、多くの人に支持されるようになりました。

まあ、穿った見方をすれば、「都合のいいことを吹き込んでいるだけじゃないか?」と言えるかもしれません。

もちろん、都合のいいことを言うだけじゃ、現代まで教えが残ることはないので、そんなことはないのですが、もし万が一そうだとしても、実際、それで救われた人が増えたのも事実でしょうし、一概にダメなことだとは言えないと思います。

それに、後で解説するつもりですが、般若心経にはそれだけでは説明しきれない魅力があるんですよね。

あ、あとちなみにですが、阿弥陀・薬師・大日といった如来や、観音・文殊・普賢・地蔵などの菩薩といった、僕ら日本人がお寺で目にするような仏様も、大乗仏教から生まれたものだったりします。

釈迦の教えの否定

そんなわけで、大乗仏教の多くで経典として採用されている般若心経は、釈迦の教えによるものではありません。

むしろ、大乗仏教の側からすれば、「これは釈迦の教えを超えたものなんだ」と言いたいわけで、それもあってか、般若心経の中では、釈迦の教えを次々と否定していきます。

例えば、お釈迦様は、五蘊(色・受・想・行・識)によって世界は成り立っており、それらの認識器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)と、認識対象(色・声・香・味・触・法)によって、僕らの心の構造を説明しようとしたわけですが、

般若心経では、それも否定されています。

具体的には、以下の部分ですね。

是故空中無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至 無意識界

あるいは、他にも無明という苦しみの出発点や、老死という終着地点というものをお釈迦様は語ったのですが、それも否定されています↓

無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽

そして、お釈迦様の教えである苦諦・集諦・滅諦・道諦といった苦しみへの対処法についても、般若心経では、否定されています↓

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故

こういった否定をすることで、この世のあり方は、お釈迦様の智慧すらも超えた深遠なものなんだと、般若心経の作者は言いたいのだと思います。

それを仏教の言葉で「空」と言います。

「色即是空」とか聞いたことがあると思うのですが、そんなかんじで、この世の全ては実体があるようで実体がないのだと言うわけです。

これが般若心経の全体を通して伝えたいメッセージなのだと僕は思います。

最後の18文字まではすべて前置き

じゃあ、そこまで釈迦の教えを否定するのはいいけれど、じゃあ、どうしたら救われるんだ?

それは、般若心経の最後の部分にあります。

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

ちなみに、この呪文のことを真言(マントラ)と言って、この部分だけは通常の漢字の音読みではなく、サンスクリット語がそのまま採用されています。

ぎゃーてー、ぎゃーてー、はーらーぎゃーてー、はらそうぎゃーてー、ぼーじーそわかー…といった具合です。

ちなみに、この意味ですが「彼岸へ行ったものよ、悟りよ、幸いあれ」くらいのもので、正直なところ、たいした意味はありません。

そこに意味があろうとなかろうと、ひたすらにこの呪文を唱えなさい…というのが、般若心経で言いたいことなんですね。

だから、般若心経って実は、この最後の18文字のところが般若心経の本体部分であって、そこに至るまでの部分は、いわば前置きみたいなものなんです。

あるいは、お薬でいうところの効能書きみたいなものだとも言えるかもしれません。

「このお薬はこんな病に効果がありますよ」みたいなかんじで、「この世界の本質は『空』である」とか、「仏はこの教によって悟りを得たのだ」といった話が240文字ほど続くわけです。

そして、最終的な結論としては「この呪文を唱えておけば大丈夫だ」ということで「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」と来るわけです。

だから、僕は最初にこういったことを知ったとき、少し拍子抜けしちゃう部分もありました。

悟りのための教えなんだから、もっと色々あるのかと思ったら、最終的な結論が呪文を唱えなさいという…。

でも、あとで冷静になってよく考えていくうちに、こうなっているのには、すごい理由があるのかもしれないなって思えるようになりました。

般若心経のスゴイところ

ここからは、般若心経のスゴさを僕なりに考えいきます。

理論はあってないようなもの

で、まずは「なぜ般若心経が釈迦の教えを否定する形になっているのか?」ということなのですが、それは一言でいうなら、理論というものが「あってないようものだから」だと思うんですね。

人間の考えた理屈が100%有効なのは、数学や論理・プログラムのような人間が考えた世界の話でしかありません。

再現性の高い物理や化学の世界でさえ、1回の現象ごとに誤差というものが生まれるわけで、理論で計算したとおりの結果になることはないわけで、「いわんや人生をや」です。

科学の世界でさえ(繰り返した実験結果ならまだしも)1回1回の現象については、正確な予測ができないわけですから、人生についての理論や法則というのは、あってないようなものでしょう。

般若心経がお釈迦様の理論を否定し、すべては「空」なのだと主張するのには、そういった意味があるんじゃないかと僕は思うんですね。

生きることにセオリーは存在しない

理論というのは、必ず現象のあとを追って生まれるものであり、決して現象に先行するわけじゃありません。

例えば、「日本では人口あたりの弁護士の数が少ないから」という理由で、司法試験の制度を改正し、合格者数を引き上げた結果、法律事務所に就職できない新米弁護士が生まれてしまうということがありました(いま現在はどうなっているかわかりませんが…)。

つまり、弁護士の資格を取る人が急増した結果、いままでのようには稼げない職業になってしまったわけです。

または、年金制度についても「人口が常に増加していく」という前提を元に作られたものですが、少子高齢社会となったいまでは、その仕組自体が破綻しそうになっています。

とはいえ、世界規模で見ればの話ですが、人口が減少するなんてことは、ローマ時代以降ないことだったそうなので、人口の増加を前提にした制度を設計するのも、当時からすれば無理のない話だと言えるかもしれません。

そして、いま流行している感染症についてだって、将来の夢や計画を台無しにされて悔しい思いをした人が、それこそたくさんいると思います。

だから、生きることにセオリーはないんですよね。

「こうすればこんな未来が必ず手に入る」なんて理屈が成り立つことはありません。

結局の所は、そういった理論に頼らず、多少のリスクがあっても恐れず行動し、その様子を見つつ常に方向転換していく…。

そうやって生きていくしかないわけです。

理解したつもりになるから苦しんでしまう

念のためですが、これは別に、お釈迦様の教えを否定したいわけではありません。

むしろ、僕自身について言えば、お釈迦様の説いた四諦・八正道などの教えは、すばらしいものだと思っています。

それに、本当にお釈迦様の理論を否定したいなら、経典の中で、わざわざその理論を紹介したりしないはずなんですよね。

だから、般若心経を唱える大乗仏教の立場としても、すべての始まりである釈迦の理論はものすごく重視しているのでしょう。

しかし、そうやって理論を用いて現実を眺めることは、理解を促進する反面、そこにある種の予断が入ってしまうわけで、それは「現実をあるがままに観察し理解すること」の妨げに繋がります。

なので、そういった意味も込めて「すべては空である」と般若心経は主張しているのだと思います。

正解・不正解にこだわらず前進していけ

じゃあ、理論の力にも頼れなくなった僕らはどうしたらいいのでしょうか?

それは、さっき解説したとおり「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」という呪文を唱えなさいということなのですが、これは一見すると無責任なアドバイスに感じるかもしれません。

でも、僕は決してそうではないと考えています。

というのも、例えば気分が落ち込んだとき、たった10回でも呪文を唱えると、そこに大した意味がないにもかかわらず、少し気持ちが紛れることってあると思うんですね。

それは呪文じゃなくても、散歩するとか、運動するとか、お風呂に入ってリラックスするとかでも同じことです。

ただ立ち止まって考えるのではなく、なにかしら行動することによって気持ちが変わったことって、誰しもが経験のあることじゃないでしょうか。

実際、人間は立ち止まって考え出すと、ろくなことがありません。

悩みというのは、いまの視点では答えが出ないことなのにも関わらず、無理に答えを出そうとすることで生まれるわけです。

例えば、「自分は何のために生きているのか?」とかですね。

そんなこと、いまの時点で考えても理解できるわけがありません。

いまはわからないけれど、まずはとにかく行動してみること。

そして、その結果、あとになって過去を振り返り、「そうか、このときのために自分は生きていたのかもしれない」と思えるようなものが見つかるわけですよね。

だから、あれこれ考えず、とにかく前進していきなさい。

そんなメッセージが般若心経には込められているんじゃないかな?と僕は考えています。

まとめ

この記事では、般若心経について解説し、その上で、そのお経に込められたメッセージについて、僕なりに考察してみました。

現代社会は、知識・論理・情報を中心として回っていくものであり、その枠組の中で生きている限り、これは僕らにとって安心のできるものだと言えます。

しかし、その一方で、その理屈に合わない現象が起きてしまうと、普段それらのものに頼りすぎているために、現実と折り合いがつかず苦しんだり病んでしまいやすい。。。

そんな人が多い社会だとも言えると思うんですね。

だから、そんな世の中に生きている現代人こそ、「すべては空である」ことを主張する般若心経を唱えいくべきだと思うのです。

参考書籍

NHK「100分de名著」ブックス 般若心経 Kindle版 佐々木閑(著)

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