「科学って皆が思っているほどは役に立たないよ」という話

いまからする話は、わかっている人にとっちゃ当たり前のことだと思うのですが、ついつい忘れてしまうことが多いので、自戒も込めて書いておきます。

僕なんかも特に当てはまるのですが、世の中には「理屈で考えて納得できないと行動に移せない」という人が一定数います。

行動する前に何もかも全部を徹底的に調べ上げて、自分が行動すべき絶対的な根拠を探し求めるタイプです。

きっと学校教育が影響しているんじゃないかと思うのですが、「科学的である」とか「論理に筋が通っている」という状態じゃないと納得できないし、そうやって科学や論理を使って自分を納得させないと行動できないんですね。

でも、そういう人たちに伝えたいことがあって、それは「科学とか論理ってそんなに役立つじゃないよ」ということです。

これは別に、根拠のないトンデモ理論みたいなものを推したいのではありません。

科学や論理は役立つものだから世の中に存在し、広く支持されているわけですよね。

だから、科学を学ぶこと、論理的に考えることは大切なことです。

ただ、どんなものにも正しい使い方というものが存在するわけで、「科学や論理を適用する範囲を間違えてませんか?」という話がしたいわけなんです。

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科学が役に立たなくなるのはどんなときか?

どういうことかというと、科学とか論理的な思考というのは、

  • 前提条件がすべてハッキリしていて、
  • それが時間を経ても変化せず、
  • 何度も繰り返し起きるような現象であること

といった条件が重なってこそ力を発揮するものなんですね。

でも、僕らが人生で直面する出来事というのは、

  • 前提条件なんてほんの一部しか見通せず、
  • それが常に変化し続けて、
  • 全く同じ条件で起きるものは一度しかない

といったものなわけです。

だから、学校の勉強のように確定した世界でのことなら、科学や論理を存分に適用させていけばいいのですが、人間や組織みたいな血の通った生身のものとなると話が違ってくるよ…っていいたいんですね。

科学は平均的な概念をもって研究するもの

で、まとめると僕が言いたいことはそれくらいなのですが、具体例がないと分かりづらいと思うので、いくつか例を挙げてみたいと思います。

例えば、あなたが自分の結婚相手を探していて、その候補にAさんとBさんという二人が挙がったとしましょう。

AさんとBさんには、それぞれの良さがあって、あなたはこの二人のどちらを選ぶべきか判断できずにいます。

で、こういうとき、「結婚生活が長く続く相手について科学的な統計データ」みたいな理屈で考えるよりも、想像であったり直感といった、科学的とは言えないような判断を大切にすべきだと思います。

というのも、科学は平均的な概念をもって研究するものであって、個人の人生みたいな主観的なものを正当に扱うにはあまりにも一般的すぎるんですよね。

だから、もし結婚というイベントが100回とか200回とか繰り返されるようなものであるなら、そういう統計的なものが役に立つのでしょう。

でも、人生で1度か2度くらいのものなわけですから、それを統計でなんとかしようと思っても無理な話なんですよね。

サイコロで1の目が出る確率が1/6であることを知っていたとしても、サイコロを6回振って確実に1を出すことはできない…みたいなのと同じことです。

論理的であることの脆弱性

ちなみに以前、本を読んでいたら、僕の言いたいことが書いてある良い例が載っていたので引用します。

三行で簡単にまとめると、

  • 世界情勢から成長産業を分析し有望な会社を見つけたが、
  • 他社も同じ思考過程を辿って同じ会社を買収しようとしていたので、
  • 価格が釣り上がって利益が出なくなってしまった

というような話です。

以下、引用文(詳しく知りたい方だけどうぞ)。

(前略)きれいな机の上、議事日程や面会の厳守などは、ある種のビジネス・エグゼクティブの心的傾向の象徴であると同時に症候でもある。彼は几帳面な、強迫感にとりつかれたタイプの人間で、しばしば自分はビジネスをひとつの科学として把握していると揚言する。そしてどちらかというと、科学的経営の霊気に心酔したビジネス・スクール出身者である場合が多い。

彼は自分のオフィスのどこに何があるかを心得ているのと同じように、ビジネスがどこへ向かっていこうとしているかを正確に知っていると思っている。この態度は彼のすることなすことのほとんどすべてに浸透している。彼の十八番は──といっても、たいていの場合、本人がそう自称するというだけのことだが──科学的に将来の計画を立てることにある。それは会社を買収する時の彼の方法に、最もはっきりと表れる。

彼は俗に〝狙撃方式〟と呼ばれるやり方をとる。それにはまず経済の大勢を研究し、将来繁栄しそうな産業に、さらにその中でも最も有望な業種に、それからいくつかの会社に、最後に最も有望な環境にある最良の業種の最良の会社に目標をしぼり、その会社を買収しようと決める。それからその目標に〝一発必中〟の狙いを定める。

実際にはどういうふうになるのかって?さよう、まず彼は上層の人びとからなる戦略グループを編成し、彼らに「現在、世界で最も重要なものは何か?」と自問させる。だれかが、「エネルギーだ」という考えを出し、ではそれにしようということになる。エネルギーに関連したものは何か?油田で使われる機械はどうだ?彼らはその分野に属するいくつかの業種を検討し、油井掘削が最有望だという結論に落ち着く。なぜか?それは資本集約度が過度に高くなく、高度に精密を要する事業で、たいていの油井掘削会社は大きな利益を挙げている。

そこで彼らは油井掘削会社のリストを作り、そうして見るとたしかにそれらの会社はいずれも好収益を挙げている。それは秘密でもなんでもない。それらの会社の株は、すでに収益の一〇~一五倍の値をつけている。戦略家たちはその価額の大きさにちょっとひるむが、結局、それだけの値打ちがあるのだと判断する。それは大きな未来を約束された輝かしい分野で、だからこそそんなに高い株価がついているのだ。戦略家たちはリストを検討して、X社を選択する。それはその分野で最良の部類に入る年率二〇%の成長を続けており、だからこそ収益の一五倍もの値をつけているのだ。その高い買収価額を収益で相殺するには、かなり長い期間がかかるかもしれないが、それはその分野の優良会社であり、したがって良い買いものだ。そこにいたるまでの一歩一歩は、調査や報告書や覚書でしっかり固められている。誤りはあり得ない。

しかし、交渉に乗り出してみると、他の会社の戦略家たちも同じ思考過程をたどって、やはりX社を買収にかかっていることがわかる。そこで買収価額は、たとえば収益の一五倍の一億六五〇〇万ドルから二〇倍の二億二〇〇〇万ドルへとつり上げられる。それは買収価額の償却に予定していたよりさらに長い期間がかかることを意味する。しかし彼らは、そんなに価額が高いのは、X社がどれほど優良な会社かをだれもが知っているからで、自分たちの会社の株主たちはその買収が良い選択であることを認め、その取引のために必要な借入金の利息より収益が上回るようになるまで、すこし長く待つことに反対はしないだろうと推量する。そこで彼らはX社を買収し、高い買いものではあったが、すばらしい取引をしたということに全員の意見が一致する。

それからどうなるだろう?買収の時点では、だれにもわからない。問題はそこだ。どんなに厳密な〝狙撃方式〟による計画でも、将来の環境の移り変わりを予知したり、その責任をとったりすることはできない。しかし、ありそうという以上の確率で、仮のほかのことは全部順調にいったとしても、その新しい買収を黒字にもっていくには、予定の五年ではなく九年ぐらいかかる公算が大きい。つまり九年間は収益なしの、相当の負債状態というわけだ。概して物事は戦略家の製図台の上で計画されたようには運ばないものだ。実際、もっとずっと悪い成き行きになる可能性だってある。

世界的な石油不足のことを覚えておいでだろうか?買収戦略家たちは石油会社──とりわけ未開発の地下油源を持っている石油会社──はすばらしい買いものになると考えた。全部の戦略家が同じ理由から同じことを考えた。巨大科学会社は巨大石油会社を買収し、鉄鋼会社も石油会社を買い、石油会社も石油会社を買い、いずれも最高の代価を支払った。なぜなら、買うことのできる者はだれでも、石油産業に進出しようとしていたからだ。

それから何が起こったか?石油不足は解消してしまった。石油は供給過多になった。ほんの二、三年前に石油会社を買収した人びとは、今にいたって、買収しなければよかったと悔やんだに違いない。そうした買収の元をとるには長い年数がかかる。

しかし、誤りは石油の供給の多少を予測できなかったことにあるのではない。それは未知の将来を予測する間違いようのない戦略を編み出す方式とされているものに、あまりにも依存しすぎたことにある。それはよくありがちなことだ。そうしたやり方は功を奏さない。というのは、戦略家たちはみな同じ教育を受け、同じ情報を研究し、同じ結論に同時に到達するからだ。彼らの勧告は一種の流行のようなものをもたらす。それにしたがって航空会社が競ってホテルを買収し、巨大通信会社が競って書籍出版社を買い、書籍出版社が競ってペーパーバックの出版社を買い、だれもが競ってコンピュータ会社を買おうとするといったことが起こる。

ハロルドジェニーン.プロフェッショナルマネジャー~58四半期連続増益の男(pp.175-178)..Kindle版.

論理的に考えれば、ここでの話の判断は正しいものだったはずなのですが、「他社の存在」というものを考慮していなかったせいで、当初の目論見通りには行かなかったわけですね。

だから、「論理的である」とは、せいぜいそんなものです。

判断に関わる「あらゆる条件」が目に見えていれば、論理的思考によって上手く物事が運ぶのでしょうが、人間である僕らには、そんな神の目のようなものは持ち合わせていません。

よって、その見えない条件が加わることで、論理で考えたとおりには、現実は変化してくれないのです。

科学や論理の適用範囲を間違えないこと

というわけで、「科学や論理の適用範囲を間違えないようにしましょう!」という話でした。

やっぱり、僕らが人生でぶつかる出来事というのは、「科学や論理でサクッと解決♪」みたいなふうには上手くいきません。

それができないからこそ、あれこれ悩んでしまうわけですよね^^;

じゃあ、そんなときはどうすればいいのか?

それはもう「責任をもって決断すること」しかないんだろうなと思います。

それはつまり、

  • リスクを進んで受け入れること
  • わからないことばかりだけど勇気を持って行動するしかないこと
  • その結果を観察しつつ場合によっては他の行動へと柔軟に変化させること

といったことでしょうか。

まあ、「言うは易く行うは難し」ですね。。。

いずれにせよ、こういった当たり前のことを避けて、魔法のツールとして科学や論理にすがるようになると、変な方向に行っちゃうので気をつけましょうって話でした。

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