「夢を叶えるための努力なら楽しい」というウソ

以前、こちらの「手段と目的における楽しさの問題」という記事でも書いたのですが、自分の理想を実現できるからといって、その努力までもが楽しいものだとは限りません。

なんか「夢を叶えるための努力なら楽しい」というのが常識のようになっていますが、それは必ずしもそうではなくて、前に話したことの繰り返しになりますが、それってかなり限定的な場合だと思うんですよね。

 

その証拠に、例えば「お金が好きですか?」と質問すると、ほぼ全員が「好きです」と答えると思いますが、実際にお金稼ぎに精を出している人は、ごく一部だと思うんです。

それに、ちょっとしたことで儲けられるチャンスって、いろいろあると思うのですが、それを探そうとしたり、あるいは、それを知っているにも関わらず面倒がってやらない人だっているわけで。。

だから、お金が好きで「お金持ちになりたい」という夢を持っていたとしても、必ずしもお金を稼ぐことまで好きとは限らないということです。

 

まあ、これは「働くことは嫌いだけどお金は欲しい」みたいな怠惰な人を考えてみれば、当たり前のことだと言えるかもしれません。

ただ、その当たり前も、少し状況が変われば当たり前だとは思えなくなるわけで、「夢を叶えるために努力しているはずなのにどうして楽しくないんだろう?」と困惑している人はたくさんいるんですよね。

あ、ちなみに、意識の部分では「これが自分の夢だ」って思っていたとしても、無意識の部分では全く違うことを考えている場合があって、それが楽しくない原因だということも考えられますが、

いずれにせよ今回は、「目的が好ましいものだとしても、その手段までもが好ましいものになるとは限らない」という話がしたいのです。

 

では、なぜこういうことが起きるのか?

人間は理性を手に入れたおかげで、何年も先のことまで逆算して計画することができるようになりました。

ただ、好き・嫌いの判別をする情動系は、(ちなみに、これは哺乳類が共通して持つ脳の領域だそうですが、)そういった長期的な計画にはついていけないんですよね。

よって、理性から見ると「この努力は目的を叶えるためのものなので望ましいはずだ」となるのですが、感情からいえば「なんでこんなことやらなきゃいけないの?」というズレが生まれるのです。

 

と、まあ、そんなわけで、それなら僕らはどうすればいいのか?

おそらく解決策は「その努力そのものを目的抜きに好きになる」というところにあると思っているのですが、具体的にどうすればいいのかは、また別のところで書こうと思います。

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