手段と目的における楽しさの問題

以前、「自分の好きなこと・達成したいことのために努力しているはずなのに、なぜか楽しくないんです」と悩んでいる人がいたので、これについて僕なりに思うことを書いていきます。

 

まず一つ考えられるのは、意識が決めた目標を、無意識が好ましく思っていない場合です。

例えば、意識の部分で「いい学校に入りたい」と思っていたとしても、それが本当は「親を悲しませてはいけない」という考えからくるものであって、無意識の部分では「もっと別の夢を叶えたい」と思っていたのだとしたら、当然その努力も楽しめないでしょう。

ちなみに、親子の関係がうまく行っていない人の中には、無意識が「親の育て方が間違っていると証明するためにわざと失敗してやろう」と復讐に走る人もいて、

そういう人は、意識では「成功したい」と思っていても、大事なときに限って体調が悪くなったりして、とにかく上手くいかないことが起きたりするものです。

 

で、それは話の前置きで、僕が今回言いたいのは、どちらかというと次のことで、

それは「そもそも、どれだけ目的が好ましいものだとしても、それを達成するための努力まで好ましいものになるとは限らない」ということなんですよね。

 

なんか、「好きなことのための努力だったら楽しいに違いない」みたいに思い込んでいる人が結構いるようですが、そういう理想的な状態というのは、比較的、限定された場合でしかありえないんじゃないかと僕は思っています。

例えば、「今日おいしいものを食べに行くために仕事を頑張って早く切り上げる」とか。

そういう今日・明日くらいの短いスパンのことだったら、努力も楽しめるかなって思いますが、これが1ヶ月とか1年の単位になると、ふつうは楽しめなくて当然だと思います。

というのも、人間の脳は、そこまで上手くはできていないからです。

 

僕らは理性を手に入れることによって、数年先のことを想像したり、計画を立てたりすることができるようになりました。

でも、これって極めて人間的な大脳新皮質における活動の話であって、「楽しい」とか「楽しくない」といった情緒面については、そんな長期的な未来のことには対応できないんですよね。

だから、「来年のためにいま頑張る」みたいな努力が楽しめないのも全く無理はないのです。むしろ当然です。

 

じゃあ、そういった長期的な目標のためには、ひたすら苦しい思いを我慢して努力するしかないのでしょうか?

僕は、それも違うと思っていて、ではどうすればいいのか?というと、「目標達成に必要な努力そのものを楽しめるように自分自身を訓練するしかない」というのが結論になります。

受験で合格したくて勉強しているのだとしたら、まずは勉強そのものを好きになることから始めるわけですね。

 

ということで「努力を楽しめないから自分には向いてないのでは?」と考えてしまう人は多いみたいですが、

そうではなく「自分に楽しむ能力が足りていないんだ」と考えて自らを訓練する発想が必要なんだと思います。

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