繰り返しの毎日を生きるということ

ほとんどの仕事というのは、同じことの繰り返しだと思います。

  • 営業マンなら、毎日、お客さんに商品を売り込む
  • 学校の先生なら、毎日、生徒に教科書の内容を教える
  • お医者さんなら、毎日、患者を診察し治療する

もちろん、お客さんや生徒や患者は、それぞれに違っている存在ですから、厳密な意味では、同じことの繰り返しなんてありえません。

ただ、そういった具体的で細かな違いを別にして、「商品を売り込む」「教科書の内容を教える」「診察し治療する」といった大枠で捉えれば、毎日が同じことの繰り返しだと言ってもいいんじゃないでしょうか。

むしろ、「毎日が同じことの繰り返しだ」と捉えるからこそ、一つの職業として技能を深めていくことができるのだと思います。

さて本題なのですが、以前の僕は、そういった「繰り返しの毎日を生きること」に疑問を感じることがよくありました。

まあ、「疑問を感じる」というと大げさかもしれませんが、なんというか「一度きりの人生なのに、これでいいのかな?」といった漠然とした焦りみたいなものがあったのです。

  • 「自分はこのままでいいんだろうか?」
  • 「今よりもっとマシなものがあるんじゃないか?」
  • 「違う世界へそれを探しに行ったほうがいいんじゃないか?」

なにかを始めるまではいいのだけれど、しばらくすると、そういった考えが頭をもたげてくるのです。

で、そうなると、いまやっていることが次第に馬鹿らしくなってきて、途中で物事を投げ出してしまうんですね。

つまり、僕は物事が続かないタイプの人間なのでした。

もちろん、世の中には、僕よりも「もっと物事が続かない」という人も存在します。

約束したことを守れない人もいますし、勉強を途中で投げ出したり、仕事を途中で投げ出す人もいます。

そういった、いわゆる「当たり前のことができない人たち」と比較すると、僕はまだ”継続できるタイプ”なのかもしれません。

ただ、それは多少の程度の違いがあるだけで、本質的には、僕と彼らは同じ人間だと思うんですよね。

ちなみに、こういった漠然とした焦りみたいなものは、それこそ中学・高校生くらいのときから、ずっと僕の心の中に存在していました。

当時の自分には、ここまで明確に言語化できなかったでしょうけど、それでもこの「なんとなくモヤモヤとした気持ち」に、僕はずっと悩まされてきたのです。

でも、最近になって、ようやくそのモヤモヤの正体・原因がわかるようになりました。

歳を重ねて多少の知恵がついたおかげか、自分の悩みを考察の対象として扱えるようになったのだと思います。

なぜ僕たちは「なんとなくモヤモヤとした気持ち」に襲われるのか?

それを理解する上で、まず参考になったのは、17世紀フランスの思想家パスカルの言葉です。

「人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。」

「わたしたちの悲惨さをなぐさめてくれる唯一のものは、気晴らしである。ところが、これこそ、わたしたちの悲惨さのなかで最大のものである。なぜなら、わたしたちに自分自身のことを考えないようにさせ、知らず知らずのうちに滅びに至らせるものは、主としてこの気晴らしだからである。」

「これ(気晴らし)がなければ、わたしたちは退屈してしまうだろう。退屈すると、わたしたちはそこから逃れるためにもっと確かな手段はないものかと探し求めずにいられない気持ちに駆り立てられるであろう。しかし、気晴らしは、わたしたちを楽しませ、知らず知らずのうちに死に至らせる。」

このパスカルの言葉を初めて読んだとき、僕は「なるほどな…!」とすごく納得した記憶があります。

繰り返しの毎日の中で「このままでいいのだろうか?」と感じてしまう原因は、人間の「一箇所に落ち着いてじっとしていられない」という性質にあったんですよね。

つまり、これは僕だけが抱える悩みなのではなく、人類に共通した悩みだったわけです。

ちなみに、仏教でも同じような問題が取り扱われています。

例えば、仏教の開祖である”お釈迦様”は「一切皆苦」という言葉を残していて、これは直訳すれば「この世の一切は苦しみである」という意味なのですが、もっと分かりやすい形に言い換えると、

  • 「この世で最終的に物足りることはありえない」
  • 「いかに満足を求めても結局は満足しきることはできない」
  • 「なにをどうやったって満足することはできない」

といったニュアンスになるかと思います。

さっきも言ったとおり、僕ら人間には、退屈から逃れるために気晴らしを求める性質があるわけですが、その一方で、その気晴らしによっては、なにをどうやっても満足することはできないのです。

例えば、嫌なことがあったとき「早く終わってほしいな」という気持ちになりますよね。

それ自体は、少なくとも理解できることだと思います。

でも、それとは反対に、たとえどんなに良いことがあったとしても、僕たちは「もっとこれが続けばいいのに…」なんて考えてしまうんですね。

だから、人間の欲に限りはないのです。

一時的な満足はあるかもしれませんが、良いことも悪いことも、最終的には満たされない気持ちへと変わります。

満たされないからこそ、人間は次の気晴らしを求めるんですね。

そんなわけで、パスカルと釈迦は「人生が気晴らしと退屈の繰り返しである」ということを見抜いた点で共通しています。

僕らは「社会的な成功」や「精神的な満足感」を追い求めて、あくせく活動するわけですが、それが気晴らしであると自分で気づくことは、なかなか難しいんじゃないでしょうか。

なので、数百年・数千年も前から、そこに気づいて指摘した人がいるっていうのは、素直にすごいなって感心してしまいます^^;

で、そんな二人なのですが、ただ、同じ結論に至ったあとの「じゃあ僕らはどうするべきなのか?」という部分の考え方には少し違いがあります。

パスカルは「気晴らしと退屈を繰り返す人生から脱却するためには『神への信仰』が必要だ」と主張した一方で、お釈迦様はこんなことを言いました。

「どうせ満足できないのだから、もう開き直ってしまって、不満足な気持ちの中でも落ち着いていられるように、自分自身と向き合ったらどうだろう?」

これは、ある種「逆転の発想」とでも言えるかもしれません。

僕らは問題が起きると、ついなんとかして解決しようとするわけですが、ここまでの話によると、その行為こそが「気晴らし」になるわけで、人間の不幸の原因になっているわけです。

だから、いっそのこと開き直って、「解決しないことを解決策にしてしまえばいいじゃないか」ということを”お釈迦様”は言っているんですよね(あくまで僕の解釈になりますが)。

この仏教の考え方を知って、僕の10年来の悩みに、ようやく解決の糸口が見つかったわけです。

繰り返しの毎日に疑問を感じたとき、僕は、自分の気持ちに正直になって、何か別のことを求めるのが正解だと思っていました。

でも、それは「自分の気持ちに正直になる」ということの意味を履き違えていただけだったんですよね。

あくまで「自分の気持ちに正直になる」というのは、しっかり自分と向き合う姿勢を作った上での話です。

自分と向き合うことから逃げている状態だと、いくら自分の気持ちに正直になったところで「やりたくないな」とか「面倒くさいな」といった意見しか出てきません。

結局のところ、過去の僕は、あれこれ理由をつけて別の気晴らしに逃げていただけだったのです。

そんな姿勢では、何をやったところで上手くいくわけがありません。

実際、逃げた先でも、しばらくすれば「もっとマシなものがあるんじゃないか?」なんて考え始めて、また違う気晴らしを求める…ということを繰り返していました。

だから、僕らは退屈な現在と向き合って、そこに落ち着いていくしかないのです。

気晴らしを求める気持ちは十分わかるのですが、なにをどうしたって僕らは満足できないのですから、そこに逃げちゃいけません。

  • 物足りない自分に、物足りていられるようにならなきゃいけません
  • 焦ってすぐに何かを手に入れようとしたがる自分を律しなければいけません
  • なにがなくても心配せず、安心してどっしりと構えていられるような、そんな芯の強さを身につけなければいけません

それこそが、退屈と気晴らしを繰り返す人生から脱却するための、唯一の方法なんだと思います。

ちなみに、新しいこと・違うことを始めるのは、もちろん大切なことです。

でも、それが「単なる気晴らしとしてのもの」なのか、「自分としっかり向き合った上で、本当に自分が求めていると感じたこと」なのかを区別できなきゃいけません。

「自分なんてどうせダメだから」といって挑戦を諦めることと、「自分としっかり向き合った上で気晴らしに逃げない」ということは、まったくもって違う(むしろ正反対)ことです。

そこは間違えないように気をつけましょう。

こういったことを知って納得できるようになってから、僕は「繰り返しの毎日を生きること」に以前よりも肯定的になれたと思います。

もちろん、いまでも朝起きたときに「また繰り返しの毎日か…」「本当にうんざりするなあ…」なんて感じる日はあります。

ただ、それでも「気晴らしに逃げたって最終的には物足りない気持ちになるだけだ」ということを理解しているので、途中で投げ出すようなことはありません。

この調子で、繰り返しの日々をコツコツと積み上げていきたいと思います。

…それにしても僕が気になるのは、「みんなはこういった悩みについて、どんなふうに捉えているのだろうか?」ということです。

真正面から取り組んだ上で解決しているのか、それとも「そんなこと考えている暇があったら仕事しろ!」なんて言って考えないようにしているのか…。

正直、他人に聞いたことがないのでわかりません。

というのも、「ちょっとすみません」「あなたは繰り返しの毎日を生きることについてどうお考えですか?」なんて恥ずかしくて訊けませんからね^^;

でも、僕としては、おそらく後者のほうなんじゃないかと思っています。

つまり、毎日が忙しくて、そんなことを考える暇もないのか、あるいは考えることがあったとしても、「臭いものに蓋」方式で考えないようにしているんじゃないかと思うのです。

というのも、よく「中年の危機」なんて話を聞くじゃないですか。

いちおう軽く説明すると「中年の危機」というのは、中高年が陥る鬱病や不安障害のことです。

人生が一段落するような年齢に差し掛かり、「自分の人生は本当にこれで良いのだろうか?」といった疑問が湧いてきて、これまでの生き方や自分自身に自信がなくなったり悩んだりするわけですね。

ただ、それって、ここまでで話してきたような悩みに蓋をして生きてきたから、あるときドバっと不安が噴出しているんじゃないでしょうか。

なので、そういった「中年の危機」なんて言葉がある以上、「繰り返しの毎日を生きること」や「退屈と気晴らしの繰り返し」といったことについて真面目に取り上げず、考えないようにしている人がほとんどなんじゃないかと僕は思うわけです。

で、そういったことを踏まえると、自分はとても幸運に恵まれているような気がしてくるんですよね。

というのも、社会人になったら、そんなことをじっくり考えている暇はないからです。

でも、だからといって、こういう悩みに向き合わず逃げてばかりいると、後で痛い目に遭ってしまうわけで…。

ちなみに、「新卒の3割以上が3年以内に辞めてしまう」というのも、こういう「繰り返しの毎日を生きること」への疑問と関係しているんじゃないかな?って個人的には考えているのですが…。

とにかく、そんなわけで時間は掛かりましたが、ここまでの人生で得た「繰り返しの毎日を生きること」への納得感は、社会人として就職したときに、自分を心の底の目に見えない部分で、しっかり支えてくれるんじゃないかなというふうに期待しています。

とか言いつつ、すぐに辞めちゃうかもしれませんけどね…^^;

そんなわけで、非常に長くなりましたが、今回の話は以上になります。

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