河合隼雄さんの「コンプレックス(岩波新書)」という本を読みました。
日常生活の中で「コンプレックス」という言葉をよく聞くと思いますが、よくよく考えてみると、その意味については詳しく知らないという人が多いのではないでしょうか?
この本の中では、
- そもそもコンプレックスって何なのか?
- 僕らの人生においてコンプレックスがどんな役割を持っているのか?
- コンプレックスはどのように僕らに影響を与えるのか?
- コンプレックスとの適切な付き合い方
などが分かる内容になっています。
説明の仕方についても、抽象的な理論をひたすら述べていくのではなく、臨床的な例もたくさん挙げられているおかげで、かなり興味深く読めたと思います。
対人恐怖症の女子学生という比較的穏やかなものから、多重人格の少年という極端なものなど、そういった具体例について触れるたびに「人間の心というのはこんなにも不思議なものなのか」と感心させられました。
ちなみに、これらの例のうち、自分にとってイチバン身近に感じられたのは、「夢とコンプレックスの関係」の部分です。
河合隼雄さんは、「夢とコンプレックスの関係」について、こんなことを仰っています。
われわれの行動は、コンプレックスの影響を多く受けてきている。しかし、自我はコンプレックスの実態が把握できないので困っていることが多い。
(中略)
ところが、睡眠中には、自我の力が弱まるので、コンプレックスの活動が活発となり、その動きを自我は夢として把握することになる。このような意味で、夢の内容は自我の把握し得ていない心の動きを、しばしば伝えてくれるわけである。つまり、夢によって、われわれはコンプレックスの状態を知ることができるのである。
いま振り返ると、僕は一時期、大学院を中退しようか考えていたことがあったのですが、その頃だけは、普段あまり見ないにもかかわらず、なぜか夢を見ることが多かった気がします。
その夢の内容については、
- 電車に乗れずに学校に遅刻しそうになる
- 単位が足りなくて焦る
- 教室にたどり着けず校舎の中をさまよう
といった具合のものでした。
不思議なのは夢の舞台が、主に小・中学校だったことです。肝心の大学については、夢の中では全くと言っていいほど出てこなかったんですよね。
まあ、とにかく、こういった内容の夢を見るようになってから、理屈としてはどうであれ、気持ちの面で「やっぱり卒業したほうがいいのかな」と思い直すようになり、復学してからは、こういった夢は見ないようになりました(というか夢自体を全く見なくなりました)。
だから、これは僕の中にある何かしらのコンプレックスが、夢の中で自我に語りかけてきたのかな?…というふうに解釈しています。
いずれにせよ、こういう内なる声に耳を傾けることは大切ですね。
僕がこの本の中で特に感動したのは、「コンプレックスは決して悪いものではない」「むしろ自分が成長するために必要なものだ」という話です。
ユングは、コンプレックスについて、こんなことを言いました。
コンプレックスをもつことは、何か両立しがたい、同化されていない、葛藤をおこすものが存在していることを意味しているだけである。── 多分それは障害であろう。しかしそれは偉大な努力を刺戟するものであり、そして、多分新しい仕事を遂行する可能性のいとぐちでもあろう。
僕らは普段、意識の領域であれこれ損得勘定をして活動していますが、その裏側では、無意識の領域の「もうひとりの自分(すなわちコンプレックス)」が、しっかり息づいているわけです。
そして、コンプレックスとしての自分は、安全な世界に引きこもりがちな自我に対して、
- 「そんな狭い世界に閉じこもっていたらダメだ」
- 「もっと広い世界を知りなさい」
- 「もっと成長しなさい」
と問題を突きつけて、あれこれ要求してくるんですね。
「成長を促してくれる」と言えば聞こえはいいですが、一般的に良薬は苦いものです。
こういったコンプレックスからの要求は、現在の自分(すなわち自我)にとって都合が悪く、できれば避けたいものに感じられるでしょう。
でも、だからといって彼らの声を無視し続けていると、神経症であったり抑うつ症などの、しっぺ返しをくらうことになります。
とにかく、コンプレックスというと、ネガティブなイメージを持たれるかと思いますが、ただ悪いだけのものが僕らの心の中に存在するわけがありません。
コンプレックスは、人間が発展する上で必要なものであり、心のエネルギーの源でもあるのです。
なので、邪険にするのではなく、しっかりと向き合っていきたいところですね。