昨日、知り合いから「以前の職場の同僚が羨ましく感じてしまう」という相談を受けました。
その知人の同僚の方は、姉妹が事業を行っていて非常に成功しているのだそうですが、その後ろ盾でもってビジネスを学んだり、贅沢したりする様子がタイムラインに流れてきて、「羨ましい」という嫌な気持ちになってしまうのだそうです。
で、僕について「そんな経験ないですか?」ということを聞かれたのですが、中学・高校生の頃ならまだしも、流石にこの年になると何も感じなくなってきますよね^^;
ゼロとは言いませんが、ゼロに近づいていってるかんじです。
中高生の頃は、それこそ「自分の部屋がほしい」とか「なぜ自分は真面目に勉強しているのに静かにしてくれないんだ」とか「いい環境で勉強できる人が羨ましいな」とは思っていました。
でも、せいぜいそれくらいかもしれませんね。
「お金がほしい!」とか「遊びたい!」といった気持ちは、いまもそうなのですが、昔からずっとなかったような気がします。
「さとり世代」という言葉がありますが、まさにそれで、物欲のない現代の典型的な若者なんだと思います。
まあ、物欲や嫉妬の感情があれば、今頃もっと行動して成功していたかもしれませんが、それは決して幸せとは呼べないし、そのままだといつかは痛い目に遭うだろうなという気がしています。
誰かを「羨ましい」と感じたとき、自分の見えない範囲には、その人以上にもっと羨ましい状況にいる人がたくさんいるはずですよね。
じゃあ、そういった見えない人に対しては何も感じず、見えている範囲の人だけに「羨ましい」と感じて、不幸な気持ちになるのはおかしな話です。
だから、「あいつが羨ましい」みたいな話は、正直、僕にはピンときません。
それに、もし自分が羨ましい立場になって、なんらかの甘い汁を吸ったところで、それは決してタダではないんですよね。
支払うべき代償…というと少し大げさですが、支払うべきコストが必ず存在します。
他人のお金で贅沢したところで、その人がいなくなってしまったら、その後で痛い目を見るのは自分です。
一度上げた生活水準は、簡単には下げられませんからね。
なので、どれだけタダに見えても、あとから支払いを求められるように上手くなっているのです。
そして、その支払いからは絶対に逃れることはできません。
たとえお金を支払わずに済んだとしても、人間関係や健康や精神状態が変になってしまったりするんですね。
特定の誰かからの取り立てを上手くかわすことができたとしても、人生は僕らから相応のものを容赦なく取り立ててくるわけです。
ちなみに、これは「甘い汁を吸っちゃダメだ」という話ではありません。
そうではなくて「甘い汁はタダじゃないんだよ」「それ相応の支払いを求められますよ」という話です。
だから、ちゃんと支払う用意をして甘い汁を吸うのは、全然問題ないことだと思います。
イチバンわかりやすい例は、「人の見えないところで努力をしていた」というパターンですね。
その場合は、そうやって努力した結果(つまりは支払いを済ませた結果)、羨ましい状況にいるわけですから問題ありません。
あるいは「後で自分は苦労するだろうな」と覚悟して、楽な道を選ぶのも全く問題ないと思っています。
その人は支払いをツケにして、あとで返すことを選択しただけですから。
なので、何事にも「支払うべきコストがあるんだ」と覚悟しておくことが肝要ですね。
…と、まあ、そんなわけで話をまとめると、僕は「人生による取り立て」というものを信じているんですよね。
たとえ誰にもバレずに悪事を働いて、その結果、甘い汁を吸えるようになったとしても、知らず識らずのうちに心が病んできてダメになってしまうだろうと思います。
ドストエフスキーの小説「罪と罰」の、ラスコーリニコフみたいなかんじですね。
だから、どんなに羨ましい状況にいる人を見かけたとしても、僕は「あの人は既に支払いを済ませたのか、あるいはこれから支払っていくのかのどちらかだ」と考えるだけです。
なにも不公平はありません。
その人のことが羨ましいなら、自分も支払いを済ませればいいだけです(あとで支払う覚悟をするのでも構いませんが…)。
自分で支払いを済ませずに、誰かの買ったものを欲しがるようなことは、間違ってもしちゃいけません。