僕は普段、人に勉強を教えるようなことをしているのですが、勉強の悩み相談に乗っていると、よく出てくるのが「どうやって計画を立てたらいいのかわからない」というものです。
なので、こちらも「計画の立て方」みたいなコンテンツを配布しているのですが、「参考になった!」と評価してくれる人がいる反面、「なんかイマイチ納得できなかった」という感想もチラホラと見かけるんですよね。
で、僕としては「これ以上なにを説明すればいいんだろう?」というふうに思っていたのですが、そういった感想をいくつか読んでいるうちに気づいたことがありました。
それは「計画の立て方がわからない」という人は、計画の立て方以前に一つ大きな勘違いをしているのではないか?ということなんですよね。
計画を立てることに公式は存在しない
じゃあ、その勘違いとは何なのか?というと、「まるで方程式を解いたり、公式に数値を当てはめていくのと同じように、計画を立てることにも最適な手順・アルゴリズムみたいなものが存在している」というものです。
僕の話にイマイチ納得できなかったという人は、きっと「こうすれば誰でも計画が立てられるよ」という公式みたいなものを求めていたんでしょうね。
でも、いつまで経っても、肝心の公式を教えてもらえないから「期待していたのとは違った」という感想になるんだと思います。
ただ、勘違いしないのでほしいのですが、僕は別にイジワルで教えようとしないのではなく、そもそも計画を立てる公式みたいなものは存在しないんですよね。
計画に必要なのは手法ではなく責任
ちなみに、なぜそういったことに気づいたのかというと、ドラッカーのマネジメントに「戦略計画」という章があって、そこを読んだからです。
具体的に引用させてもらうと以下の部分になります。
戦略計画は魔法の箱や手法の束ではない。思考であり、資源を行動に結びつけるものである。
戦略計画の作成にはさまざまな手法を使うかもしれない。コンピュータも使うであろう。しかし、「われわれの事業は何か」「何であるべきか」に対する答えは、データやプログラムではない。手法やプログラム自体が戦略計画なのではない。それらは道具に過ぎない。
戦略計画とは、意思決定に科学的な方法を適用することでもない。それは、思考、分析、想像、判断を適用することである。手法ではなく、責任である。
これ、何度読んでも「本当に深いな~」と感心させられます。
現実の世界では「こうすれば確実に目標を達成できる!」みたいなのはおろか、「こうすればリスクを最小にできる」みたいな計画の立て方も存在しないんですよね。
計画を立てる決まった手順が存在しない理由
というのも、そもそも僕らは正確な判断に必要なすべての情報を集めることはできないし、特にビジネスなんかだと、どれだけ緻密に計画を立てたところで周りの人の動きまでは予測できないからです。
もしこれが学校の勉強だったら、問題を解くために必要な情報は、すべて問題文から得ることができますが、僕らが現実の世界でぶち当たる問題はそうはなっていません。
計画を立てる上で必要な情報は、殆どの場合、自分から行動しなければ得られないわけで、しかも行動したところですべての与件を知ることはできないんです。周りの人たちの行動が影響する事柄なら尚更ですよね。
そして、科学や論理というのは、正しい条件が与えられて初めて機能するものですが、これは逆に言えば、「問題の前提条件がわからない状態だと、何の力も発揮できない」ということになります。
で、そういった理由から「科学や論理だけでは計画を立てられない」ということになるんですね。
リスクを最小化する計画法も存在しない
これに対して「じゃあ、すべての情報が得られなくても、なるべく多くの情報を集めて論理的に判断することで、リスクを最小化できるのでは?」という意見もあるかもしれません。
でも、情報収集することにもコストが掛かるわけで、そのことを考慮すると「わからないなりに動いたほうがいい」という状況だってありえます。
例えば、新型コロナウイルスに対するロックダウン措置について考えるとすると、その対策が効果的かどうかは、あとになってみなければ判断がつきません。
だからといって「ロックダウンに効果があるかどうか情報が出揃うまで待つ」ということをすると、最悪の場合「効果があることはわかったけど感染者が増えすぎて時既に遅し」ということにもなりかねないわけで。
そういうことを考えると「効果が出るかは確証がないけれど、何もしないよりはロックダウンしたほうがいい」という判断を取る人がほとんどだと思うんですね。
なので、リスクの最小化という概念は、あまり意味を持たないんですよね。
それができるなら最初からやっているわけですから。
計画から「賭け」の要素を排除することはできない
ということで、どれだけ論理的に考えて、どれだけ合理的な判断を下していったとしても、最終的には理屈で評価できない「未知の部分」が残るんだということが言いたいのでした。
「わからないことがあるから判断を先送りにしよう」という選択を取るにしても、そうすることでせっかくのチャンスを逃してしまうかもしれないわけで、今度はその未知の可能性を検討しなくちゃいけません。
なので、論理や科学といった武器を手にしたところで、僕らはどうしても「賭ける」という要素から逃れることはできないんですね。
極端な話、コンビニまでパンを買いに行くのにも、交通事故や強盗に遭うリスクが(ごく僅かにですが)存在するわけです。
じゃあ、「その僅かなリスクすら怖いから…」という理由で、パンを買いに行くことを止めたとしたら、今度は「お腹が空いて集中できない」とか「健康に悪い」といったリスクが生じるわけですよね。
計画を立てるというのは、そういった様々なリスクを天秤にかけた上で決断をするということです。
間違っても「科学的な手法を適用することで安全・安心の元に目標達成する方法を考えること」ではありません。そんな都合のいいものは存在しません。
計画に必要なのは手法ではなく責任
というわけで、ここまで来れば、ドラッカーの言った「戦略計画とは手法ではなく責任である」という言葉の意味が理解できるんじゃないかなって思います。
計画を立てるのに本当に必要なのは「こうしたら上手くいく」という手法ではありません。手法は計画のごく一部でしかありません。
本当に必要なのは、リスクを受け入れる覚悟であり、たとえ計画したとおりに物事が上手く行かなくても、その失敗を全面的に受け入れて背負うということ、つまりは責任なんですよね。
まあ、とはいえ、こんな解説をしている僕自身、「上手い方法でなんとかしてやろう」みたいな気持ちが抜けきれてないところが大いにあるので、このドラッカーの言葉を忘れないようにしていきたいと思います。