例えばの話ですが、「自分の将来の夢は歌手になることです」という人がいたとしましょう。
普通ならこういう人は歌の練習をしたり、人前で歌を披露して活動するだろうし、そうやって夢の実現に近づくことで幸せそうにするものですよね。
でも、中にはよく観察していると、例えば「歌い方を研究しているんだ」とか理由をつけて、全然歌おうとしなかったり、あるいは歌っていても全然楽しそうじゃなかったりする人が一部います。
後者のパターンの場合、おそらく歌手になるという夢は、現実逃避のための手段として、そう言っているだけで、本当はそんなに歌手になりたいというわけではないのでしょう。
だって、本当に自分が望んでいるのだとしたら、前者の人のように楽しそうにするはずですからね。
だから、「将来の夢」というのは現実逃避のための手段としても使われるわけです。
で、この話で大切なのは、本人も「それが現実逃避のための夢である」ということに気づけていない点にあります。
「周りにウソをついてやろう」みたいな気持ちは全くなくて、意識では本当に歌手を目指しているのですが、なぜか行動に移せなかったり、あるいは、行動に移せたとしても楽しくなかったりするんですね。
じゃあ、なんでこういうことが起きるのか?
それは、脳の認識機能には大まかに2つの種類があって、いわば理性によるものと感情によるものに分けられるのですが、その2つの意見に食い違いが起きるからなんです。
詳しく説明すると、理性としての認識とは、過去や未来を一本の軸で結びつけることで、筋の通った物語を生み出そうとするものであり、
感情としての認識とは、「自分がいまなにを感じているのか?」という身体からの信号をキャッチするものです。
理性による認識は背外側前頭前皮質という部位によるもので、感情は内側前頭前皮質という部位からのものなのですが、つまりは、それぞれが脳の異なる部位による働きなので、意見が一致しない場合があったりするんですね。
それは、例えば「将来の夢が必要だと言われた」とか「好きでもないことを我慢してやってる」みたいな矛盾を理性が解決しようとして起きたりします。
理性と感情が一致しているとき、人は自分の幸せのために生産的に行動していけるのですが、これらが一致しないとき、頑張っても幸せになれないわけで、いわば不幸の始まりだと言えるかもしれません。
そして、そうならないためには、とにかく「自分の身体からの信号を見逃さない」というのに尽きると思います。
というのも、僕らは普段から理性を中心に生きていて、感情による理解をないがしろにしやすいからです。
実際、みんな「悲しい」「怒り」といったものを「身近な人をなくしたとき」とか「人から裏切られたとき」みたいに、理性として説明することならできますが、
それを例えば「お腹がズンと重くなる」とか「頭に血が上ってくる」みたいに(これは言葉による表現ですが)、身体の感覚として理解している人は少ないと思うんですよ。
嫌いなことや辛いことから逃げるのは大切だと思いますが、現実逃避している限り幸せにはなれません。
とはいえ、「現実逃避するな」とは言うのは無理があるでしょうから、まずは自分が現実逃避していることに気づく必要があります。
どれだけ頭で考えて自分を納得させたとしても、身体からの反応は騙せませんからね。
結果を出しつつ幸せな人生を送るために、身体からの信号に僕らは敏感であるべきだと思うのです。