快楽は燃料であって目的ではない。

「僕らが生きているのは幸せになるためである」というのは、ひっくり返しようのない命題であるように思えますが、

じゃあ、その幸せって具体的に何なのか?という話になったとき、「それは快楽を得ることである」と言われるとなんとなく疑問を感じてしまいますよね。

ちなみに、こういったことを最初に言ったのは、古代ギリシャの哲学者エウドクソスという人だそうで、「快楽主義」と呼ばれたりしています。

 

で、この快楽主義について問題点を挙げるとすると、快楽を得ることが人生の目的なのであれば、アルコールや薬物に依存した人生というのも幸福な人生だと言えてしまうわけで、これは明らかに納得できません。

それに快楽とは逆の存在である、苦痛の伴うことにだって僕らは幸福を感じることがあるわけです。

例えば、筋力トレーニングとか。

あれは、やっている最中は苦痛でしかありませんが、継続したトレーニングの結果、自分の身体の変化を実感することで、「大変だったけど、やってよかったな」という幸福感を得られるわけですよね。

 

よって、次に出てきた意見が「達成感こそが幸福である」というもので、古代ギリシャの学者たちには、こちらの意見に賛成する人が多かったみたいです。

それについて言えば、現代でも同じ状況だと言えるかもしれませんね。

というのも、「辛くなければ仕事じゃない」とか「給料は我慢料」だなんて言う人もいますし、「キツイのは自分が成長している証だ」と考えて、自らを追い込んで努力する人もいます。

 

ただ、この考え方が行き過ぎてしまうと、「達成感を得るためには快楽は避けなければいけない」という考え方になってしまうわけで、そこに警鐘を鳴らしたのが、アリストテレスたちです。

「ニコスマス倫理学」の中で、アリストテレスは、「快楽は悪いものではないから喜んで受け取ればいい」「ただし、そうかといって快楽が目的というわけではない」といいます。

つまり、彼が言いたいのは「快楽とは活動に付随するものであって、それ自体目的ではなく、人間を行動させるための燃料みたいなものだ」ということだと思うんですよ。

 

この考え方は、かなり納得できるように思えます。

というのも、僕らが車を利用するのは、目的地へたどり着くためであって、燃料のためではないからです。

そうやって、燃料が目的ではなく道具であるように、快楽というものが人生の目的(つまりは幸福)なのではなく、幸福を得るための手段なんですよね。

ちなみに、ここまでの話で快楽主義が上手く否定されています。

 

では、次に「快楽は避けるべきものか?」ということを考えたいのですが、これも違うことがアリストテレスの意見で理解できます。

というのも、さっきの車の例でいくと、燃料は目的ではないとはいえ、燃料がなければ車は走れないからです。 

車に燃料を入れることで、目的地にたどり着くことも、あるいは全然関係ないところへ寄り道することができるように、

快楽という燃料の使い方次第では、筋トレを習慣化させて健康な人生を送ることもできますし、あるいは依存症という不健康な人生を送ることもわけで、

いずれにせよ、快楽というものを利用しなければ、行動を動機づけることはできません。だから、避けるべきどころか、むしろ喜んで求めたほうがいいんですよね。

だから、避けるべきどころか、むしろ喜んで求めたほうがいいんですよね。

 

さて、なぜこんな話をしたかというと、「ニコスマス倫理学」という本を読んで、その内容を自分なりに整理したいからなのでした。

僕らは辛いことや、上手く行かないことに出くわしたとき、ついつい「何のために生きているんだろう?」とか「人生の目的ってなんだろう?」なんて悩んでしまいがちですが、

こういう先人たちの知識を学んで、自分なりに理解を深めておくと、ブレずに行動できるようになるんじゃないかなって思います。

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