本当の悪は非生産性にある

先日、アウトレイジシリーズの映画を観た感想を書いたのだけれど、その映画のインタビューで北野武が、

「映画のキャッチコピーは『全員が悪人』というものだけれど見方を変えれば『全員が善人』なのかもしれない」

…といったことを話していて面白いことを言うなあと思いました。

 

例えば、ヒーローものの話とかだと、よくある物語の構成として、「善 VS. 悪」といった構図が取られるじゃないですか。

でも、翌々考えてみれば、悪の側に立つ人間だって、それが自分にとっては正義だと思っているから、そちらの立場に立つわけです。

だから、そういう意味では、どちらも正義なのかも知れないし、どちらも悪なのかもしれない。

きっと、そういう意味で話したんだと思います。

 

まあ、アウトレイジという作品は、極道がテーマになっているので、その時点で正義にはなりえないでしょうが、

とはいえ、登場人物たちは、彼らが生きる世界の中で当たり前のことをしているだけなので、意外と「気分が悪くなる」という意味での悪を感じることはありませんでした。

ライオンがシマウマを襲う様子を見て、「ライオンって悪いやつだ」「気分が悪くなる」みたいなことってないじゃないですか。

むしろ、どちらも必死に生きているわけで、その様子をみて僕らは感動したりさえするわけです。

映画の感想の中でも、残酷な描写が多い割には、観たあとに不思議なスッキリ感があるといったことを書いたのですが、それはこういう理由があるのかもしれませんね。

 

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「法律違反」=「すべて悪」なのか?

 

で、そういったことを考えたとき、「本当の悪って何なのか?」ということが気になってくるわけです。

「法律に違反することが悪である」というのは、もちろんそれが悪であることがほとんどだとは思いますが、必ずしも全部がその限りではないと思うんですね。

第一、国や時代によって法律は変わってくるわけで、そうなると、正義とか悪という概念は、普遍的でなく極めて頼りないものになってしまいます。

 

例えば、第2次世界大戦時には、ユダヤ人のためにビザを乱発し、法律を破って亡命を助けた人たちがたくさんいます(ポルトガルの外交官だったソウザ・メンデスなど)。

でも、この対応について、当時の社会では非難轟々だったそうで、いまとは評価が全然違いますよね。

だから、法律みたいな権威が決めるものによって、正義や悪が左右されるのは違うと思うんですよ。

 

正義とは生産性にある

 

じゃあ、結局、正義と悪をどうやって区別したらいいのか?

結論としては、やっぱり、「人間に対する生産性」という部分に鍵があるのではないかと思います。

ちなみに、「人間に対する」という補足を入れたのは、生産性という言葉が利益とか金銭的な意味で使われることが多いからです。

 

人間のもつ可能性を実現させたり、能力を成長させるような生産性のあるものは正義であり、逆に、可能性の実現や能力の成長を阻害するようなものは悪である。

そう考えるのがイチバン自然な気がします。

 

で、こういう判断基準を採用すると、悪いことをしていないはずの人が悪者扱いされていたり、あるいは、その逆がよく起きていることに気づけたりするんですよね。

あと、自分が無駄な罪悪感を抱えていた知って、気持ちが少し楽になったり。

なので、権力のみによって定義される善悪と、人間性に基づく善悪を区別することは、正しく、かつ楽に生きるために必要なことなんだと思います。

 

僕としては、こういうことを中高生のような思春期のうちに知っておけたら良かったなとか思うわけで、

それを学べる本としては「サピエンス全史」なんかが良いと気がするのですが、中高生が読むには少し難しかったりするかもしれませんね。

 

…と、まあ、なんかまとまりがなくて、何がいいたかったのかよくわからないかんじになっちゃいましたが、ひとまず以上になります^^;

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