自分でサービスを作って販売して、初めて商品が売れたとき、「相手に喜んでもらわなくては…」「これは責任重大だな」と最初に感じたのですが、
そうやって、あまり素直に喜べていない自分に対して戸惑ったのを今でも覚えています。
というのも、それまでの自分としては「お金さえ儲かれば楽しくなるだろう」というふうに思っていたので、
お金が儲かったにも関わらず、楽しくならないのであれば、「自分は一体何のために努力しているんだろう?」という気持ちになったんですね。
で、そういうことで悩んでいるとき、アリストテレスの言葉が参考になったので、それを簡単にまとめてみたいと思います。
快楽と幸福の関係性
昔、古代ギリシャの時代に、ある人が「幸福とは快楽を得ることであり、かつ、苦痛を避けることである」といった人がいました。
確かに、この主張は全く理解できなくもないですが、それだったら、一生辛いことから逃れるばかりで、何もしないことすら幸せだということになってしまいそうです。
そんな逃避してばかりの生活は明らかに幸せとは、程遠いようなかんじがあります。
そこで、さっきの立場と全く逆の「快楽は不幸を招くだけなので、苦痛に耐えて努力することが幸福を得る方法である」と主張する人も同じ時代にいました。
で、やっぱりこれも僕らとしては納得できません。
もし仮に、自分の取り組んでいることが、どれだけ意味のあることだとしても、ひたすら辛いことばかりに耐えるだけの人生が幸福だというのは、あまりピンと来ません。
そこで、アリストテレスは、幸福について次のように主張しました。
「幸福は、あくまで徳に基づいた活動を継続することにあるのであって、快楽を得ることにあるわけではない。」
「ただし、その活動の過程で、いわばオマケ的に発生した快楽というのを享受するのは、決して悪いことではなく、むしろ善いことである。」
楽しむには訓練が必要
彼が言ったことを具体例をあげて説明すると、例えば、学校で自分の苦手な数学を勉強しなくてはいけないというとき、
最初は理解できず勉強が全く楽しくなかったけれど、少しずつ努力して勉強してくことで、先生の話が理解できるようになり、テストで点数が取れるようになり、少しずつ楽しく思えるようになってきた。
ただ、楽しくなってきたといって、そういった快楽を得るために数学を勉強しているかと言うと、それはまた違っていて、数学を勉強するのは、あくまで学力を身につけるためなわけです。
とはいえ、この数学力を身につけるための努力の過程で発生したボーナス的な「楽しさ」というものについては、「目的のものじゃないから」と拒否するのではなく、喜んで受け取ればいい。
だから、僕らというのは、自分がやるべきことをやったときに快楽を感じられるよう、日々、自分を鍛えていかなくてはいけない。
アリストテレスが言いたかったのは、そういうことなんですね。
稼ぐ喜びについて
で、こういうことはお金を稼ぐことについても、当てはまるんじゃないかなって思うわけです。
いままでの僕は、「お金が儲かったら無条件に楽しさをを感じられる」と考えていたわけですが、
お金というのは手段であるわけで、欲しい物も特にない自分がお金を稼いでも、これといって使う対象もなく、別になんの喜びもないわけです。
だから、お金を稼ぐことが純粋に楽しいと感じられる人は、そう感じられるよう訓練したわけであって、お金そのものが僕らを楽しませてくれるわけではないんですよね。
…と、まあこれは、よく考えてみれば、当たり前のことなわけですが、
じゃあ、なぜその当たり前のことに気づけなかったのかと言うと、それは僕の周りの人たちが「儲かる」=「楽しい」というふうに考えているから、
僕も自然とそうなんだろうと勘違いしてしまったんだろうと思います。
とはいえ、僕が見る限り、自分の能力の表現として「お金を稼ぐこと」を素直に楽しんでいる人もいれば、
普段のストレス発散のためにお金が必要で、それを「お金を稼ぐことが楽しい」と思い込んでいる人もいるわけで、
自分は前者の人間になれるように、日々、訓練していく必要があるなあと思いました。