年齢を重ねることと妥協すること

 

以前、なにかのTV番組だったかYouTubeだったか忘れたのですが、

「将棋で有名な藤井聡太さんの、負けたときの悔しがり方が尋常じゃない」

みたいな内容の動画を見たことがあります(検索して探したのですが、ちゃんとしたやつが出てこなかった…)。

 

その肝心の悔しがり方なのですが、僕の記憶によると、本当に首が90度に折れ曲がって、まるで「この世の終わりなのかな?」みたいなかんじで悔しがってたんですよね。

 

で、それを見たときに、

「なるほど、それだけ負けたくないからこそ、プロの最年少記録も連勝記録も塗り替えるくらいの強さが生まれたんだな」

と腑に落ちてすごく納得できた自分がいたわけです。

 

「これだけ悔しがることができるって本当にすごいな」って思ったんですよね。

 

 

人間っていうのは、基本的に妥協していく生き物です。

だって、そうやって現実を受け入れていかない限り、生きていくことができませんから。

 

「もっと頭が良かったら…」「もっとお金持ちだったら…」「もっと容姿がよかったら…」

そんなことを誰しも考えたことはあるでしょうが、絶対に上手く現実と折り合わせて、(悪く言えば妥協して)現状の自分を受け入れているはずです。

誰しも年齢を重ねるごとに「まあ、いいや」が増えていくんです。

 

でも、藤井聡太さんは、将棋に関してはどうしても妥協できなかった。

将棋に関してだけは「まあ、いいや」で済ませられなかった。

それって、ハッキリ言って、ちょっとおかしな人ですよね(もちろんいい意味で^^;)。

 

でも、どうしても譲れない何かがあって、その何かがあるからこそ、尋常じゃないくらい努力するし、

尋常じゃないくらい努力しているからこそ、負けたときの悔しがり方も普通じゃないわけです。

 

だから、現実を受け入れられず、理想との違いに苦しむことっていうのは、ある意味で努力の源になるというか、自分を変えるモチベーションになるのでしょう。

現に、その結果が、あの藤井聡太さんなんだろうなって感じました。

 

 

で、若いときって、こういう理想と現実のギャップによるエネルギーがすごい大きいと思うんですよね。

 

なんか僕も中学生くらいの頃は、いつも怒っていたような気がします。

特に、学校の先生とか、世の中の大人に対して。

「大人だったらもっとちゃんとしなきゃダメだろ」みたいに。

 

だから、「自分はそうなりたくない」「もっと頑張って見返してやる」みたいな気持ちで、勉強とか頑張ったりしていました。

まあ、それなりの結果も出たと思います。

 

 

でも、最近の僕は、年齢を重ねたせいか「学校の先生も大変だよね…」「大人だって完璧じゃないよね」って思うようになっています。

あ、もちろん、学校の先生とか、世の中の大人に対してだけじゃなくて、あらゆる出来事において全般的にそういう見方をする傾向が出てきたってことですね。

 

これは、いい方向から見れば、現実を受け入れることができるようになったといえるだろうし、

悪い方向から見れば、理想を掲げることを忘れて、妥協してばかりの人間になったとも言えるだろうな…と。

 

そして、自分が中学生だった頃に比べて、気持ちの面といいますか、そういうものも薄れてきたんじゃないかな…なんて思ったり。

 

 

…と、まあ、ここまで取り留めもなく、つらつらと書いたわけですが、何が言いたかったかというと、

  • 年齢を重ねるごとに「まあ、いいや」で妥協して現実を受け入れることが上手になっていくこと
  • 妥協が上手になった分だけ、理想と現実とのギャップに苦しむ機会が減り、その苦しみの大きさも小さくなっていくこと
  • ただ、その苦しみが減った分だけ、「自分や周りを変えていこう!」というモチベーションも減って、行動する際の熱量も失われてしまうこと

みたいな話がしたかったかんじです。

 

そう考えると、現在以上に熱量を持って行動できる瞬間って、もうこの先には来ないわけで…。

だったら、もっと毎日を大切にして生きていかなくちゃなって思いつつも、昨日は誘惑に負けて、真夜中にカップ焼きそばを食べてしまった僕でした。おわり。

 

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