少し時間が経ってしまったけれど、個人的に興味深いニュースを見つけたので、それについて少し語ってみたいと思います。
「キズナアイが無期限活動休止を発表 休止前ラストライブも開催決定」
https://news.yahoo.co.jp/articles/6ff3d404f3ba38df4bc73d71c3be038103a4f7a0
いま、Youtubeなどの動画配信サービスでは、Vtuber(Virtual+Youtuber ということだと思います)というものが流行っていて、そのブームを起こすきっかけとなったのが、この「キズナアイ」というキャラクターなんだそうです。
僕自身、Vtuberの配信を見ることはないのですが、キズナアイについては以前から知っていて、たしか何かのテレビ番組で見かけたことがきっかけだったと思うのですが、初めて見たときは「時代はここまで進んだのか…」と驚いた記憶があります。
ただ、そんなVtuberの先駆け的存在も、ついには活動休止してしまうということで、詳しい事情はよくわかりませんが(再生回数を稼げなくなってしまったからでしょうか?)残念に思います。
ただ、僕が個人的に興味深いなと感じたのは、この活動休止のニュースというよりは、このニュースに寄せられたコメントのほうなんですよね。
それは、例えば以下のようなものです↓
“中の人本人がどうかというより
運営のやらかしでコンテンツとして終わってしまったのは可哀想だった
実際、昔は見てたけど中の人が4人に増えて、
どの動画で元々のご本人さんがやってるのか記載などがなくて、
それから全く見なくなった”
どういうことかというと、もともとキズナアイというキャラクターに声を当てている声優さんがいたのですが、あるときから複数の人がキズナアイの声優を担当するようになったそうなんですよね。
で、それが嫌で動画を見なくなった人が多いらしく、そういったことから、この人は「運営のやらかしでコンテンツとして終わってしまった」というふうにコメントしているわけです。
これ以外にも、僕が見る限りですが、同様のコメントが多く寄せられていました。
ただ、僕としては、これって「運営がやらかした」とかではなくて、「そもそもキズナアイってそういうコンセプトだったんじゃないの?」って思うわけです。
そもそも、こういう架空のキャラクターを立ち上げたのは、生身の人間をアイドル・タレントとして起用することへの問題を解決するためだったんじゃないでしょうか。
生身の人間を扱う以上、私生活の部分で問題を起こす可能性がありますし、なんといっても歳を重ねていくごとに外見も内面も変化していきます。
人間ですから、見た目や考え方が変わるのは当たり前ですし、それは何も悪いことではありません。
ただ、ある種の「稼ぐための商品」として、そういう変化しやすいものを扱うのは難しい点が多いわけで、それに比べれば、キズナアイのような架空のキャラクターを使えば、そういった問題には煩わされなくて済みます。
なので、「キズナアイの声優さんを複数人に増やす」というのは、運営側の視点で考えれば、自然な判断だと思います。
だって、声優さんを一人に決めてしまったら、それは純粋にキャラクターに価値があるわけじゃなくなってしまうし、どうしてもその人の都合に振り回されてしまうわけで、バーチャルとしての強みが発揮されなくなってしまいますから。
でも、その合理的な判断を実行したら、結果としてファンは離れていってしまった…。
キズナアイのファンだった人たちは、完全にバーチャルなキャラクターである「キズナアイ」が好きだったのではなくて、現実世界で喋っている声優さんの人格を含めての「キズナアイ」が好きだったということですよね。
だから、話をまとめるとすると「人は機械に感動するのではない」「人は人に感動するのだ」ということになるんだと思います。
世の中には「現実の女性よりも二次元のキャラクターが好き」という、いわゆるオタク的な男性がいますが、そういう人たちをよく観察してみると、そのキャラクターを担当する声優さんの熱烈なファンだったりするわけですよね。
あるいは、TwitterのようなSNSでも、有名な大企業が運営するアカウントより、有名な個人が運営するアカウントのほうがフォロワー数が多い傾向にありますよね。
…で、そういったことを考えると、どれだけAIが発達したとしても、人間の創作活動は絶対になくならないような気がしてきませんか?
例えば、いま「作曲するAI」というものが開発されていて、それを使ったら、本当にそれっぽい素敵な曲が作れてしまうそうなんですね。
でも、果たして、僕らがその「AIが作った曲」を聞いて感動するかというと、そんなことはなさそうじゃないですか。
僕でいえば、最近、米津玄師さんの「STRAY SHEEP」というアルバムを聞いているのですが、それってよくよく考えてみると、曲そのものに感動するのではなくて、米津玄師さんに感動しているんですよね。
曲はもちろん素晴らしいことに違いないのですが、それよりも「同じ人間なのに、どうしてここまで素晴らしい曲が作れるんだろうか」という意味合いのほうが強いんじゃないかと思っています。
だから、衣食住に関わるような機能的価値だけを求められるものについては、たしかに機械化がどんどん進んで人間が入り込む余地がなくなってしまうのかもしれませんが、その一方で、芸術などの心理的価値を求められるものについては、これからも人間による仕事が続いていくのだろうと思います。
「AIによって人間の仕事が奪われる」なんて言われたら、すごく不安に感じてしまうかもしれませんが、そんな心配することはなくて、人間が機械的な労働から開放されて、より人間らしい仕事に集中することを求められる…というのが実際のところじゃないでしょうか。
そうなると、ただ生活のために仕方なく働くのではなく、それぞれが自己実現に向かって働く世界になるわけで、そこまで未来を悲観的に捉える必要はないと思います。