結果を出すのと同じくらいムダなことにも取り組むべき理由

最近、以下の本に出会ってから、座禅というものにすごく関心を持つようになりました。

現代坐禅講義 只管打坐への道 (角川ソフィア文庫) Kindle版, 藤田 一照 (著)

で、こちらの本の中では、座禅するときの姿勢について「全一性」というものを掲げていて、それを視覚的にわかりやすく示すために、ホバーマン・スフィアというおもちゃの例を上げています。

こんなかんじのおもちゃです↓

見てもらえばなんとなくわかると思うのですが、プラスチックでできたハサミ上の関節を折りたたんだり伸ばしたりすることで、球の大きさを自在に変えられるわけですね。

で、大事なのが、このおもちゃはどこをつまんで動かそうとしても、必ず全体が一緒になって伸縮するという点です。

一部のみを独立して動かすことはできません。

なので、逆にいえば、どこか一部を動かないように固めてしまうと、全体も同じように動かなくなってしまうわけです。

座禅をするときも、このおもちゃと同じことが言えるそうで、例えば「姿勢が悪いから…」という理由で腰を動かそうとすると、その動きは腰のみでなく、足・腕・胴体・頭など全体に影響が及ぶみたいなんですよね。

実際、僕らの身体の動きをイメージしてみれば、それはなんとなくわかるんじゃないかと思います。

というのも、足は足だけ、腕は腕だけ…というふうに独立して動かそうとすると、アシモ(ASHIMO)みたいなぎこちない変な歩き方になってしまうでしょう。

だから、僕らの身体というのは、一部が全体に影響を及ぼし、全体が一部に影響を及ぼすという極めて複雑なものになっているんですね。

そんなわけで、著者の方は本の中で、座禅の姿勢について「こういう形で座ってください」という指示を与えることに問題意識を感じているというふうに語っておられます。

で、その話を聞いたときに、「これって座禅の姿勢だけじゃなくて、生きること全般に当てはまるんじゃないか」ということを僕は感じました。

例えば、日中に元気よく精一杯活動するためには、夜ぐっすりと睡眠を取る必要がありますよね。

あるいは、デスクワークをしっかりこなそうと思ったら、それと同じくらい運動して身体を使わないと、どうしても頭が働かなくなってくるわけです。

なにかについて真剣に考えようと思ったら、それと同じくらい行動しなくちゃいけません。

というのも、僕らが頭の中で考えられることって少ししかないわけで、その少しのことをずっと考え続けたって、せいぜい新しいことは得られません。それは悩んでいるのと同じことです。

だから、実際に行動することによって、思考のタネというか素材みたいなものを拾ってこなくちゃいけないわけで、つまり、思考と行動は表裏一体なんですね。

なので、まとめると、僕らの人生というのは、ある意味で、ホバーマン・スフィアみたいになっているんだと思います。

なにか一つのことに取り組もうと思ったら、その反対のことについても、それと同じくらいに取り組まなくちゃ上手くいかないんです。

特に、僕らは普段の生活の中で、損得勘定をすることが多いと思います。

例えば、お金のために働くことや、将来のために勉強することであったり、見た目を良くするために運動する…など。

僕らは目的を達成するために、上手な方法を選択して、なんとか儲けようと日々を生きているわけです。

そのためにはムダを切り詰めて、とにかく効率よく振る舞うことが求められます。

でも、そうやってムダを徹底的に排除して上手く結果を出すことばかりやっていたら、いつしか絶対に燃え尽きると思うんですよね。

「あれ、そもそも何のためにこんなことやっているんだっけ…?」みたいな。

それはまさに、ホバーマン・スフィアの片方を固定させて、もう片方だけを引っ張って大きくしようとするのと同じことです。

そんな無理は通りませんし、無理くり広げようとすると、おもちゃが壊れてしまいます。

だから、僕らは結果を出すことと同じくらいムダなことにも取り組まないといけないんじゃないでしょうか。

その「ムダなこと」というのは、決して「ダラダラして過ごす」とかじゃなくて、「自分の好きなことに熱中する」みたいな、そういった活動のことを言いたいのですが、いずれにせよ、そういったムダな活動にも真剣に取り組まなくちゃ、僕らの生活はバランスを失って壊れてしまうんじゃないかなって思いました。

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