只管打坐の座禅

こんにちは!10月に入ったというのに、なぜこんなにも暑いのか…。

いい加減、涼しくなってほしいものです^^;

さて、僕は瞑想に興味があって、以前から自分なりに調べたり実践したりしていたのですが、そんな中で、つい先日、こんな本に出会いました。

現代坐禅講義 只管打坐への道 (角川ソフィア文庫) Kindle版, 藤田 一照 (著)

この本を読む前は、僕は「座禅とその他の瞑想は同じものだ」と思っていたのですが、どうやらそうではないらしいんですよね。

簡単に言えば、「何かしらの目的や意味というものを持たない」という点で、座禅はその他の瞑想法と違っているのだそうです。

目的とそれを実現するための方法のセットを坐禅のなかに持ち込むと、自然ななりゆきとして、坐禅の全体のうちで方法に関係のあるところだけ──たとえば呼吸とか下腹部の運動とか──、目的に関連するところだけ──たとえばどのくらいこころが落ち着いているかとか対象に集中できているかとか──、にしか注目しなくなりますから、狭い限られた視野でしか坐禅を見られなくなってしまいます。目的意識が強ければ強いほど、あるいは目的や方法がはっきりしていればいるほど、この坐禅の限定化の傾向が強くなります。それ以外のことには用がないのですから当然です。そうなると、坐禅中に内外で実際には起こっているはずのそれ以外のたくさんのことを見逃すことになってしまいます。それらもまた立派に坐禅の内容であるにもかかわらず、です。こうして、その当人にとっては坐禅が非常に貧しい内容のもの、単調で退屈で味気ないものとして体験されてしまいます。坐禅を手段にするということが坐禅の矮小化をもたらすのです。多くの人が坐禅を見誤る元凶の一つはここにあると思います。

坐禅は○○呼吸法とか□□瞑想法といった一つの限定された方法に還元できないものなのです。ですから坐禅は坐禅であるというより他ありません。瞑想法といわれるものの多くは、何か具体的な目的とか目標を持っています。頭の回転が良くなるとか、こころが落ち着くとか、健康になるという世俗的な目的から始まって、真我や神と合一するとか、三昧状態に入るとか、悟りや超越的な智慧を獲得するといったスピリチュアルな目的に到るまでそれこそいろいろな目的、目標、ねらいがあると思います。それはそれで大変結構なことだし、極めて有用なものだと思います。わたしが言いたいのはそれらの瞑想法がいけないとか間違っているとか、やってはいけないとかいうことでは決してなくて、只管打坐の坐禅とそれらの瞑想法とは基本的に性格というか質が違う、ものが違うということなのです。これは、優劣の問題ではなく質の違いの問題です。わたしが思っているのは、よくある両者の混同を避けて、坐禅の本来のあり方をはっきりさせたいということです。違いをはっきりさせ、よく理解した上で、あとはそれぞれの人が自分の責任でどれを選ぶかを決めればいいのだと思います。

藤田一照.現代坐禅講義只管打坐への道(角川ソフィア文庫)(Kindleの位置No.823-834).株式会社KADOKAWA.Kindle版.

つまり、何らかの目的や意味を求めて座禅を行うのは間違っているということなんですね。

そもそもの苦しみの原因は「いま現在の自分を受け入れられずに何か新しいものを手に入れて満足しようとする」という僕らの習性にあるわけですから、それを克服するための修行が目的・意味・利益を前提に置いたものであってはいけません。

なので、本書にも書かれている言葉を借りると、「座禅してもなんにもならないからこそ座禅すべきだ」という理屈が成り立つわけですね。

僕らは普段の生活で、手段と目的の関係の中に身を置くことを余儀なくされます。

売上を伸ばすために宣伝活動を行う、お金を増やすために資産運用を行う、将来の仕事のために英語を勉強する…などなど。

そんなふうに、僕らの活動は常に「目的」に対しての「手段」でしかありません。

まあ、それ自体は良くも悪くもないようなことなのですが、ただ、これが行き過ぎると「じゃあ、自分の生命や人生は何のためのものなのか?」という疑問に苛まれるようになってしまうんですね。

そんなものに答えがあるわけがないのですが、いつも目的と手段のことばかり考えているせいで、僕らはこういった疑問に苦しめられてしまうのです。

では、「どうしたらこの苦しみを克服することができるのか?」というと、それこそが「なんの意味もないけれど、ただひたすら没頭する」という座禅のような活動だと思うんですね。

いつもの目的と手段の関係から切り離されて、「何の意味や目的も求めずに行う」という姿勢・能力を鍛えることによってのみ、僕らは苦しみを克服できるようになるのです。

ただ、とはいえ、この「何の意味も目的も求めずに行う」という活動は、かえって何か達成することを目的とした活動にも役立つのだと僕は考えています。

というのも、そうすることによって行動力が身につくからです。

目標を達成するプロセスは、おおまかにわけて、①仮説を立てること、②検証することの2つに分けることができますよね。

このうち「①仮説を立てる」というのは、言ってみれば、手段と目的の関係を考えることであり、こちらの能力(思考力)を鍛えることによって、より効率よく結果を出すことが可能になります。

で、それだけなら良いことなのですが、頭で考えることには困ったこともあって、それは「どうしても実行力が落ちてくる」ということなんですよね。

つまり、「②検証すること」のプロセスを踏む回数が少なくなってしまうということです。

というのも、効率よく達成する方法を考えてばかりいると、いざ実行する段になっても「いや、もっといい方法があるんじゃないか」とか「そもそもこんなことしなくたっていいじゃん、もっと他にやるべきものがあるでしょ」といった具合に、頭でっかちになって理屈をこねるようになってしまうからです。

だから、頭が良くて「①仮説を立てる」という能力が優れていたとしても、それで成功できるかというと決してそんなことないと思うんですよね。

どんなに優れた方法を知っていたとしても実行しなければ意味がありません。

頭の良さを上手くコントロールできないと、「②検証する」という能力の足を引っ張ることになってしまいます。

じゃあ、②の実行力を身につけるためにはどうしたらいいのか?

それこそが、「手段と目的の関係から切り離されて、なんの意味も考えずただひたすらやる」という練習をすることです。

なにかを実行するためには、「ちゃんと結果が出るだろうか?」とか「こんなことやって意味があるのか?」といった不安・心配に惑わされない精神力が必要になるわけですが、それを鍛えるためには「意味や目的を求めずにただひたすら行う」という座禅の練習がピッタリなんですよね。

なので、 僕らは普段の勉強だけじゃなくて、座禅を取り入れることで、①と②の能力のバランスを取れるようにすべきなんじゃないでしょうか。

まあ、とはいえ、さっきも言ったように、何かしらの目的・利益をもとめて座禅を行うことは、本来の座禅のあり方としては間違っているので、そういう考え方でやっちゃダメなんですが…。

ただ、結果として座禅が生活の役に立つことは事実だと思います。

だから、何も求めないという姿勢を取ることで、かえってより多くのものを得られるようになるというわけですが、これはすごく興味深いことだなって感じました。

sponsored link