ドラッカーの有名な言葉に「何によって憶えられたいか?」というものがあります。
私が十三歳のとき、宗教のすばらしい先生がいた。教室の中を歩きながら、「何によって憶えられたいかね」と聞いた。誰も答えられなかった。先生は笑いながらこういった。「今答えられるとは思わない。でも、五十歳になっても答えられなければ、人生を無駄にしたことになるよ」
長い年月が経って、私達は六〇年ぶりの同窓会を開いた。ほとんどが健在だった。あまりに久しぶりのことだったため、初めのうちは会話もぎこちなかった。するとひとりが、「フリーグラー牧師の質問のことを憶えているか」といった。みな憶えていた。そしてみな、四〇代になるまで意味がわからなかったが、その後、この質問のおかげで人生が変わったといった。
今日でも私は、この「何によって憶えられたいか」を自らに問い続けている。これは、自らの成長を促す問いである。なぜならば、自らを異なる人物、そうなりうる人物として見るよう仕向けられるからである。運の良い人は、フリーグラー牧師のような導き手によって、この問いを人生の早い時期に問いかけてもらい、一生を通じて自らに問い続けていくことができる。
「プロフェッショナルの条件 ― いかに成果をあげ、成長するか」 P・F. ドラッカー (著), 上田 惇生 (翻訳), 234pより引用
これを読んだ上で、僕も「自分は何によって憶えられたいだろうか?」ということを考えてみました。
で、ひとつパッと思いついたものが、人の気持ちを軽くできる人間になりたいということです。
誰かが何かで思い悩んでいるとき、「まあ、大丈夫だよ」といって、心の重荷を下ろしてあげられるような人になりたい。
つまりは、イエス・キリストみたいなかんじですよね。
福音書の有名な一節である「重荷を負って苦しんでいるものは誰でもみな私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」みたいな。
そして、そうなるためには、自分の言葉にそれなりの説得力が備わってなければいけません。
なんの信用もない人間が、「大丈夫さ」なんて言ったところで、誰も聞く耳を傾けてくれません。
「なにも考えてないだけじゃないか」と思われるのがオチです。
なので、そういった発言が許されるだけの信用というか、頼もしさみたいなものが必要になってきます。
じゃあ、頼もしい人間になるためにはどうすればいいか?
それには、約束したことを守る実行力を鍛えなければいけません。
他人に対してのことはもちろん、自分で決めたことを何が何でもやりきること。
そういう実行力がないと頼もしさは身につかないだろうなと思います。
というわけで、まとめると、
- みんなの心を軽くできる人
- みんなから信頼される頼もしい人
- キチンと約束を守る実行力のある人
ということになりそうです。
で、こういう人間になるために、いまの僕ができることは「その日に自分が決めたことをしっかりやり遂げること」「それを毎日繰り返していくこと」だと考えています。
高校生くらいまでの自分は「頭のいい人間になりたい」とか考えていた気がするのですが、やっぱり、人間は年齢とともに変わっていくものですね。
みなさんも「何によって憶えられたいか?」を考えてみてください。
僕もこれから問い続けていきたいと思います。