なんのために生きるのか?

頑張って挑戦したことが上手くいかなかったときや、すごく苦しい状況にあるとき「そもそも自分ってなんのために生きているんだろう?」と疑問に感じてしまうことがあると思います。

ただこれは心が弱っていて、現実を受け入れられなかったり、目の前のことから逃げ出したいからこそ、こういう心境に陥ってしまうのであって、結論から言うと、人間はなにかのために生きているわけではありません。

もし仮に、自分がなにかのために生きていたとして、それを X とおくとしましょう。

X には、お金でも家族でも幸せでも、なんでも好きなものを代入できるわけです。

で、もし自分が「Xのために生きている」のだとしたら、それって結局のところ X に支配された人生になってしまうわけですよね。

つまり、本来あるべきであるはずの自由が失われていると言いたいわけです。

もちろん「 X を大事にする人生」というのであれば何も問題ありません。

なので、僕が言いたいのは「自分は X のために生きている」「だから X がなければ自分は死んだも同然だ」という態度はおかしいということです。

自分と X を同一視したり、 X との関係でしか自分を語れないようではダメだと思うんです。

そういう意味で「人間はなにかのために生きているのではない」ということが言いたかったのでした。

じゃあ、僕らは「そもそも自分ってなんのために生きているんだろう?」と疑問に感じてしまうとき、具体的にどうしたらいいのでしょうか?

それは、おそらくですが、ひたすら目の前のことをコツコツこなしていくしかないと思います。

目の前のことをコツコツこなしていくのって、本当に大変で、面倒くさくて、苦しいことに違いありません。

その苦しさを回避したいから、僕らは「なんのために生きるのか?」なんて問いを立てて、生きる目的である X に自分を動かしてもらおうと都合よく考えてしまうのでしょう。

でも、その苦しさ・面倒くささを感じるからこそ、それが生きる実感となるわけで、そうすることでしか「なんのために生きるのか?」という疑問は解消されないと思うんですよね。

ちなみに当然ですが、その苦しみは「苦しければ何でもいい」というものじゃありません。

自分を成長させる上での生産的な苦しさが生きる実感につながるということです。

そして、その成長する能力というのは、どんなに些細なことでも良くて、能力それ自体を誰かと比較して、あれこれ悩む必要はありません。

例えばですが、汗をかきながら畑を耕す、その鍬の一振りにこそ、生きることの意味や答えがある…みたいなイメージです。

僕らが充実した人生を送るためにできることは、そういう一つひとつの行為から、なるたけ具体的な何かを学び取っていくことなんだと思います。

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