「ヒカルの碁」を読んでみての感想

最近、「ヒカルの碁」を読み返しています。

もともと名前だけはなんとなく聞いたことがあったのですが、僕がこの作品を実際に読み始めたのは、ほんの1,2年くらい前のことだったでしょうか。

とにかく、最初に手にとってから続きが気になって止まらなくなり、数日で最後まで一気に読み終えたのを憶えています。

 

あと、この作品には「本因坊秀策」という実在した天才棋士の名前が何度も出てくるのですが、僕が広島まで旅行した際には、その秀策の記念館にもちゃんと行きましたからね。

囲碁のルールさえ知らない自分なのに^^;

でも、因島の様子は、本当にマンガに出てくるのと同じで、すごく感動したのを憶えています。

 

じゃあ、この「ヒカルの碁」という作品の、一体どこに、それほどまでの魅力があるのか?

もっと言えば、囲碁という多くの人にとって馴染みのないであろうテーマの作品にも関わらず、なぜここまで人気漫画になったのでしょうか?

 

それを自分なりに考えてみたのですが、その理由のひとつは、勉強でもスポーツでも、なにかしらに真剣に打ち込んだことのある人なら共感できるポイントが、たくさん散りばめられているからかもしれません。

例えば、主人公のヒカルがプロ試験を受ける場面があるのですが、プロになれるのは、その年の志願者どうしで総当たり戦を行って、上位3名に入った人だけなんですよね。

だから、どれだけ実力があったとしても、偶然、志願者の中に、ものすごく強い人たちが集まってしまったら、プロになることはできません。

小さいときから何年間も努力を積み上げてきたとしても、才能のある人が入ってきたら簡単に追い抜かれてしまうわけで、そういう意味では、とても残酷で厳しい世界です。

でも、だからこそ、それを覚悟しつつ一生懸命に囲碁に打ち込む登場人物たちの姿が輝いていて、彼らの頑張りに心が動かされてしまうんですよね。

 

それと、なにより「物語の構成」という表現が適切かどうか分かりませんが、それが非常によく練られていると思うんですよね。

こんなこと言うと、「素人が何を言ってんだ」なんて思われちゃうかもしれませんが、僕の知っている作品の中でも、ストーリーの完成度がダントツに高い気がするのです。

まあ、詳しくは「ぜひとも読んで確認してくれ!」と言いたいのですが、僕の中でイチバン印象に残っているところを一つだけ紹介するとすれば、やっぱり佐為が消えてしまっての話になるでしょう。

 

この作品は「藤原佐為」という平安時代の囲碁の天才が、「進藤ヒカル」という少年に取り憑くところから物語が始まります。

佐為は、自分が成仏せずに現世に存在する理由を「神の一手を究めんがため」だと思っていたのですが、ヒカルの才能に気づき初めてから最終的には、自分が存在しているのは「ヒカルを囲碁の世界へ導くため」ということを悟るんですね。

そして、それに気づいてからは、自分の霊魂が消耗していってヒカルの気づかない間に成仏してしまうのです。

佐為が消えてしまった後のショックから、ヒカルは囲碁をやめることも考えるのですが、あるとき、ヒカルは自分の囲碁の打ち筋の中に、佐為が存在していた痕跡を見つけるんですね。

そして、「佐為に会う、ただ一つの方法は、碁を打つことだったんだ」と、彼との別れの悲しみを克服するのですが…

…ここまでの話の流れについて、読み返すたび本当に「神がかってるなあ」と思うんです。

 

生前にどれだけの富と名誉を得たところで、死んでしまえば、みんな何も残りません。

でも、一緒に過ごすことで与えられた知識や経験は、その人が亡くなっても自分の中に生き続けるわけです。

だから、ヒカルの打つ囲碁の中に、佐為と一緒に過ごした証が存在するというのは、人間が死後に残せる唯一のものなのかなって思ったり。。

と、まあ、そんなことを考えさせてくれる非常に面白いマンガなので、ぜひともまだの人は読んでみてほしいと思います。

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